大判例

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大阪高等裁判所 昭和45年(う)713号 判決 1974年5月17日

被告人 河野秀忠

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二〇〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは金一〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意は、大阪区検察庁検察官事務取扱検事田村弥太郎作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人松井清志作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

検察官の論旨は、原判決は、「被告人は佐藤哲男と共謀のうえ、法定の除外事由がないのに、大阪市長の許可を受けないで昭和四〇年六月二二日午後一〇時過頃、大阪市条例により、はり紙の表示を禁止された、大阪市東淀川区淡路本町二丁目一六七番地付近の電柱五本に『成田書記長来る』と印刷した縦約三六センチメートル、横約一〇センチメートルのビラ合計五枚を糊で貼布し、もって広告物であるはり紙を表示したものである。」との公訴事実をそのまま認定しながら、本件はり紙は、その内容において非営利的思想を表現するものであるから、屋外広告物法およびその授権に基づく大阪市屋外広告物条例二条一項、四条三項、一六条一号に規定する屋外広告物の概念に含まれず、被告人の本件はり紙を表示した行為は、同条例の右罰条に定める構成要件に該当しない、との理由で無罪の言渡しをした。しかしながら、本件はり紙のようにその内容において非営利的思想を表現するものも前記各規定にいう屋外広告物に含まれ、被告人が本件はり紙を表示した行為は、前記罰条の構成要件に該当するのであって、原判決は、前記各規定ならびに屋外広告物法二条および憲法二一条の解釈適用を誤ったもので、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない、というのである。

よって、所論にかんがみ、本件記録を精査し、当審における事実取調の結果をも参酌しながら案ずるに、司法巡査有元勝美作成の大阪市屋外広告物条例違反現場写真撮映報告書と題する書面、原審証人谷口照雄の証言、押収にかかるビラ三枚(当庁昭和四五年押第二一〇号)、被告人の司法巡査に対する供述調書、被告人の原審ならびに当審公判廷における供述によると、被告人が、佐藤哲男と共謀のうえ、公訴事実記載の日時、場所において電柱五本に「成田書記長来る、二七日後七時、三国小学校」と印刷した同記載の形状のビラ五枚を糊で貼付したことおよび被告人が右ビラの貼付につき大阪市長の許可を受けていないことが認められる。

そこで、被告人の前記認定にかかる所為が、大阪市屋外広告物条例(以下単に市条例という)一六条一号、四条三項、二条一項に該当するか否かについて、検察官および弁護人の各所論を参酌しつつ、以下順を追って検討してゆくことにする。

まず、前記認定にかかるビラがその材質、形状からみて、屋外広告法および市条例にいう「はり紙」に該当することは多言を要しないところである。そこで、右ビラ(以下本件はり紙という)が市条例にいう屋外広告物にあたるかどうかについて考察するに、市条例は、そもそも屋外広告物法八条、地方自治法二五二条の一九第一項、同法施行令一七四条の四〇により実質的には三条ないし七条、九条に基づいて制定されたものであり、市条例も一条で、この条例は屋外広告物法に基づき、屋外広告物について必要な規制を定めることを目的とするものであることを明らかにしており、そして、条例は法律の範囲でのみ制定することができる(憲法九四条)のであるから、市条例にいう屋外広告物が屋外広告物法にいう屋外広告物とその内容を同じくするものであることは明らかである。そして、屋外広告物法二条によると、この法律において屋外広告物とは、常時又は一定の期間継続して屋外で公衆に表示されるものであって、看板、立看板、はり紙及びはり札並びに広告塔、広告板、建物その他の工作物等に掲出され、又は表示されたもの並びにこれらに類するものをいう、と屋外広告物を定義しているのである。そして、本件はり紙の貼付の方法、態様、貼付された物件、その存在場所に照らすと、本件はり紙が一定の期間継続して屋外で公衆に表示されるものであることは明らかであるから、本件はり紙が市条例にいう屋外広告物にあたることも明らかである。

ところで、原判決は、市条例にいう屋外広告物は、その表示内容が営利的思想を表現するものに限られ、本件はり紙のように営利に関係のない純粋な思想等の表現を内容とするものはこれに含まれないというのである。しかしながら、本件はり紙がその表示内容において非営利的思想を表現するものであることは明らかであるが、その表示内容が非営利的なものであるかあるいは営利的なものであるかによって、原判決のいうように結論を異にするものとは考えられない。すなわち、屋外広告物法は、一条において、同法は美観風致を維持し、及び公衆に対する危害を防止するために、屋外広告物の表示の場所等について、必要な規制の規準を定めることを目的とする、と規定し、同法の授権に基づいて制定された市条例も、一条において、本条例は美観風致を維持し、及び公衆に対する危害を防止するため、屋外広告物について、必要な規制を定めることを目的とする。と規定しており、以上のような屋外広告物法および市条例の目的にかんがみると、その表示される思想内容の如何は何等問題とならず、もっぱらその表示の、場所、手段、方法の如何が問題とされるに過ぎないことが明らかである。したがって、すでにみた屋外広告物の定義もその表示される思想内容に何ら限定的な規定をしておらず、その他屋外広告物法および市条例をその表示される思想内容の如何によって取扱いを異にするような趣旨の規定を全く設けていない。市条例は、形状、面積、色彩、意匠その他表示の方法が、美観風致を害するおそれがある広告物を表示し、又は広告物を掲示する物件を設置することができないとしている(五条)にすぎないのである。また、市条例七条が、屋外広告物の許可および禁止の適用除外例として、一号、二号および五号に掲げている屋外広告物は、いずれもその表示内容が非営利的なものであることが明らかであって、これによっても、同条例が、その表示内容が非営利的なものであっても等しく屋外広告物として規制の対象とする趣旨であることが窺われるのである。

原判決は、市条例にいう屋外広告物の概念を、広告というその用語が一般に用いられている意味の範囲に限定し、非営利的な思想を表示内容とするものは狭義の宣伝であるとし、市条例にいう屋外広告物の右概念に含まれないものとして取扱わなければならない、というのである。

しかしながら、「広告」なる用語は、広く世間に告げ知らせるという意味であって、その用語の意味、内容を原判決のいうように企業がそれを手段として商業的利益を追及するものと制限的に解すべき合理的根拠を見出すことはできず、また、原判決のいうように、営利的思想を表現する広告物についてはこれを規制すべき社会経済的条件が存在する、ということ自体は認容することができるとしても、非営利的思想を表現する広告物についてはこれを規制すべき社会的条件が存在しないといえるならば格別、これらの広告物についても、美観風致等の見地から、営利的思想を表現する広告物と同様に、これを規制すべき社会的条件が存することは多言を要しないところであるから、以上の点については両者に差異は認め難く、これをもって屋外広告物の内容を原判決のいうように制限的に解する根拠とすることはできない。

つぎに、屋外広告物の表示内容たる思想と憲法との関係について、憲法二一条は、同法一九条にいう思想および良心の自由を前提として、それらの表現の自由を保障しているものであるところ、同法一九条は、あらゆる思想の間に価値的な差別を設けることなく、これらをすべて平等に保障しているものと解され、したがって、営利的思想も非営利的思想も憲法上は全く平等にその自由を保障されているのであって、両者の間において保障の程度に差異を認めることはできない。したがって、それらの思想の表現の自由に関する同法二一条も一切の思想の表現を平等に保障しているのであり、その内容が営利的であるか、非営利的であるかによって保障の程度に差異を認めることはできない。また、憲法二九条は、財産権に関する規定であって、思想の表現とは直接関係を有するものではないから、経済活動としての思想が財産権を基礎とするものであったとしても、その思想の表現が同法二九条で規定されているとことさらに解すべき合理的な理由は見出し難く、ひとしく同法二一条に規定されているものと解されるのである。したがって、屋外広告物の表示内容をなす思想を二類型に大別して、これを根拠として、そのうち経済活動としての思想内容を屋外広告物法および市条例が本来規制の対象とするにふさわしいものであるという原判決にはにわかに左袒することができない。その他原判決の前記理由を吟味しても、屋外広告物にはその表示内容が営利的思想を内容とするものも等しく包含されるものと解する前示結論を左右するに足るものを見出すことはできない。

原判決は、屋外広告物には本件はり紙のようにその表示内容が非営利的思想の表現であるものは含まれないと解することを裏面から支える理由として、仮りに屋外広告物に右のような非営利的思想の表現であるものも含まれると解した場合、表現の自由に対する制約は必要にして合理的なものでなければならないという承認された原則の適用という観点からこれをみると、他に美観風致という法益を侵害しないでなしうる表現手段が充分に講ぜられており、その手段によることが容易で、しかもその目的を実現できるのにもかかわらず、あえて牴触する手段に出たばあい、はじめてそれに対する制約が必要にして合理的であるという憲法上の承認を得ることができるのであるが、電柱にはり紙を貼付する行為は、他の美観風致ということとは関係なく考えられる手段に比較して、その労力、経費、効用の持続性などの諸点からいっても、被告人らにはそれによることがもっとも必要で合理的であることが容易にみとめられ、したがって、本件のような場所にある電柱にまではり紙の貼付を禁止している市条例は、右にいう必要にして合理的な範囲を超えている。よって、屋外広告物には非営利的思想を表示内容とするものは含まれないと解すべきである、というので以下にこれらの点について検討する。

屋外広告物は、元来、人目につきやすい場所に表示されるものであり、その効果を最大限に発揮させるため、費用、労力の許すかぎり多数、広汎に、かつ、形状、大きさ、色彩、意匠等さまざまに人の注目を集めるように工夫されて表示されるのを常とし、国民の経済生活および社会生活の進歩発展とともに屋外広告物の表示はますます増大するに至り、ことに、人口の集中する市街地にあってはこれらを表示するに適当な物件が豊富に存在し、屋外広告物が汎濫する条件が揃っているのである。そして、屋外広告物は、たとえそれ自体としては美しく工夫されたものであっても、それが表示される場所、物件、数量等により周囲の環境と調和せず全体として美観風致を侵害するに至る場合も多く、かつ、それらが一定期間屋外に継続して表示されるため、日時の経過とともに変色、破損して醜悪な情景を現出するにいたり、その侵害の度を増すことは日常の生活経験に照らしても明らかなところである。そして、屋外広告物が市街地等の美観風致を害することは、その表示の内容が営利的であるか非営利的であるかによって異るところはなく、内容とは直接関係がないのである。

人間は社会生活を営むうえで、少しでも美しく清潔で快適な環境の中で生活をしたいと願うものであり、そのような美しく清潔な生活環境を侵害するものに対しては抵抗を感じ嫌悪するものである。そのためこれに対し規制を加えて生活環境の清浄化をはかり美観風致を維持することは、そこに生活する者にとって人間の本性に基づく強い願望であり共通の利益である。これらの共通の利益を保護することは、これらの人々の文化的生活に寄与し、社会公共の福祉の増進、文化の向上に繋がるものであり、国民の文化的向上を目途とする憲法の下では、公共の福祉を保持する所以である。

そこで、市条例による屋外広告物の規制内容を概観すると、市条例二条は、屋外広告物(以下単に広告物という)を表示し又は広告物を掲出する物件を設置(以下右両者を単に広告物の表示等という)しようとするときは、市長の許可を必要とする旨を定め、同条但書は、市長の定めるポスター、はり紙及び立看板で掲出期間三〇日をこえないものは右許可を要しないものとし、市条例施行規則三条は、それらは、ポスター、はり紙については縦一・二メートル、横〇・八メートル以内のもの、立看板については高さ二メートル、幅一・五メートル以内のもので、掲出期間ならびに設置者又は管理者の氏名及び住所を明記したものと定めているのである。そして、市条例四条は個別的具体的に地域、場所、物件を特定して広告物の表示等を禁止している。すなわち同条一項は、特定の地域、場所につき広告物の表示等を禁止しているが、一号乃至四号にいう市長の指定区域はなく、五号乃至七号の市長の指定区域としては、告示八号により東海道新幹線の沿線を、告示二四九号により阪神高速道路一号線の沿線の一部を、告示一八六号により府道高速大阪守口線の一部を指定しているのみである。同条二項は、特定の物件に対する広告物の表示等を禁止しているが、四号の市長の指定は告示四六号(但し、昭和四九年五月一〇日限り告示第二一二号により廃止)により大阪駅前等の市内繁華街の一部に限られていた。同条三項は、広告物中ポスター、はり紙及び立看板についてのみ電柱およびこれに類するものならびに市長の指定する一定の場所における表示等を禁止しており、右の市長の指定も告示二七〇号により御堂筋等主要道路四線と中之島の一部等に限定されているのである。そして、同五条、六条は広告物の表示等の許可基準を具体的に示し、同七条、八条は同二条、四条に対する除外事由を定めているのである。

以上によると、広告物の表示等は市長の許可を要することとされているが、反面広範囲の適用除外が定められているのみならず、表示の内容如何とは関係のない具体的な許可基準を示し、右基準に反しない限り原則として許可する趣旨であることが明白に汲みとられるのであり、また、広告物の表示等の禁止は具体的、個別的に地域、場所、物件を指定してなされているのである。ところで、電柱についてははり紙等の表示又は掲出が原則として禁止されているのであるが、電柱は、一般に道路の側端にあって目立ちやすく、ビラの貼付にきわめて便利で、かつその広報効果も期待しうる反面、その管理の徹底が期しがたいので、これに対するビラの貼付を禁止しないかぎり多数のビラが電柱に無秩序に表示されることは原審証人服部敏郎の証言をまつまでもなく容易に想像しうるところである。そして、電柱は、道路の側端にいわば林立して多数存在し、それらに多数のはり紙等が乱雑に貼付された場合には、それ自体として街の美観風致を害するものといえるばかりか、それが日時の経過とともに風雨にさらされて変色し、あるいはその一部が破損または脱落したままで放置残存し、さらに、貼付されたはり紙の上に別のはり紙が貼付されて恰もかさぶたのような状況を呈しているときは、醜悪な光景を現出し、むしろ嫌悪不快の感さえ抱かせ、街の美観風致を著しく害するものであることは、社会通念上これを承認しうるところである。したがって、電柱に対する前記のような原則的禁止は、都市の美観風致の維持のため、やむを得ない必要に基づく合理的な規制であるということができる。したがって、市条例の広告物に対する規制の方法と程度は必要かつ合理的な範囲に止まるものであるといわなければならない。

原判決は、電柱に対するはり紙の表示に代替しうるような表現手段が講ぜられており、それによって容易に目的を達成しうるのにかかわらず、あえて電柱にはり紙をしたような場合でないと、電柱に対するはり紙の禁止は必要にして合理的な制約といえないというのであるが、たしかに、電柱へのはり紙の表示は、比較的安価で、かつ、最少の労力によってなしうる思想の大衆伝達の手段であることはいうまでもないところであるが、それだけにまた多数のはり紙が無秩序に電柱に貼付され、かつ事後処理もなされないで放置され、都市の美観風致を害する虞れが大であり、反面思想の大衆伝達の手段としてはマスコミの利用、ビラの配布、街頭演説等の方法が存在し、はり紙の表示についても、市条例の定める禁止区域、場所、物件を除き、所定の方式をとる限り市長の許可なく自由、広範囲にこれをなし得るのであることを考えると、電柱に対する規制は止むを得ないところであり、表現の自由に対する不当な制限であるということはできない。

また、原判決は、いわゆる公安条例に関する最高裁判所の判例(昭和二六年(あ)第三一八八号、同二九年一一月二四日大法廷判決、集八巻一一号一八六頁以下)を引用して、市条例が思想の表現に対し許可制を定めることは違憲となるから、市条例が許可制を採用していることは、かえって同条例が本件のような非営利的思想の表現を表示内容とするはり紙の表示に対する適用を予定していないものと解する根拠となり、とくに同条例に一定期間内にかならず許可される、または許可されたのと同様の効果を生ずるというような保障規定が欠けていることは、それが広告物の内容たる思想の表現に対する許可制という本質を持ちうる、というのである。

しかしながら、右判例は、「一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは、憲法の趣旨に反し許されないと解するのを相当とする。しかしこれらの行動といえども公共の秩序を保持し、又は公共の福祉が著しく侵されることを防止するため、特定の場所又は方法につき、合理的かつ明確な基準の下に、予め許可を受けしめ、又は届出をなさしめてこのような場合にはこれを禁止することができる旨の規定を条例に設けても、これをもって直ちに憲法に保障する国民の自由を不当に制限するものと解することはできない。」と判示しているのであって、これを市条例について見ると、既に検討したところで明らかなように、広告物の表示等は市長の許可を要することとされているが、これに対しては具体的に除外事由を定めるほか、はり紙等で所定の方式をとるものについては広範囲に適用除外を定め、広告物の表示等の禁止は具体的、個別的に地域、場所、物件を指定してなし、そして、許可の基準として、形状、面積、色彩、意匠その他の表示方法が美観風致を害するおそれがあるか否か公衆に対し危害を及ぼすおそれがあるか否かを掲げ、右基準に反しないかぎり許可する趣旨であることが明白に汲みとられるのである。しかして、右にいう美観風致とは、その時代その地域に住む人々のその住む街を美しくしよう、少なくとも現状より汚くすまいという生活感情を基盤として良識的に決定される、いわゆる社会通念を基準として判断されるものであり、法概念として許容されないほど不明瞭なものということはできない。したがって、市条例は一般的な許可制を定めたものとは到底解されず、表現の自由を不当に制限するものと解することはできない。つぎに、原判決のいうような保障規定の存在しないことはそのとおりであるが、最高裁判所の判例(昭和三五年(あ)第一一二号、同年七月二〇日大法廷判決、集一四巻九号一二四三頁以下)もいうように「かような規定の不存在を理由にして本条例の趣旨が、許可制を以て表現の自由を制限するに存するもののごとく考え、本条例全体を違憲とする原判決の結論は、本末を顛倒するものであり、決して当を得た判断とはいえない。」との批判がそのまま妥当するのである。してみると、市条例が、美観風致を維持するため、表現の自由に対しとっている規制は、前述のとおり、必要かつ合理的な範囲に止まるものであるから、同条例が本件はり紙のような広告物を規制の対象にしていると解しても、その合憲性には、何等疑いをさしはさむ余地はないのである。

原判決は、市条例一六条所定の罰則を本件行為に対し適用することは不合理を来たすから、適用されないというのであるが、仮りに電柱に対するはり紙等の表示に対する禁止がなければ、すでに述べたように無数のはり紙等が電柱に無秩序に貼付、放置され、都市の美観風致が著しく害されるに至ることは容易に想像されるところであるから、右禁止規定の実効を期するため、他にこれを回避しうる有効な手段のない現状においては刑罰をもってこれを禁止するという立法措置を講ずることもやむを得ないところといわねばならず、市条例がその違反に対し前記罰則を設けたことを不合理であるということはできず、本件行為に対し適用することに何等の妨げも存しない。そして、もともと、市条例違反の罪は、その罪質および法定刑からみても、刑罰法規のうちでも比較的軽微な法益侵害を予想しているものと考えられるのであって、特段の事情のない限り、その違法性が比較的軽微なものまでも処罰の対象として規定されているものと解すべきであり、本件行為につき可罰的違法性がないということはできない。

最後に、他の都道府県等における電柱に対するはり紙等の表示についての規制について、一定の取締目的に基づいて一定の規制手段が選択立法された場合、選択された手段がその目的に適合したものであるかどうかは、元来立法機関の裁量にまかされた判断領域に属する事柄である。すなわち、電柱へのはり紙の表示を制限するにあたり、全面的禁止とするか、許可制とするか等規制の程度、範囲は、各地方公共団体が、その地方におけるはり紙の表示の実態に則して判断すべき立法政策の問題であって、その規制が著しく不合理でないかぎり、その判断を尊重するのが建前であると解され、市条例が電柱へのはり紙の表示を原則的に禁止する立法措置をとったことについてすでに検討してきた如く合理性が肯定される以上、他の都道府県等の条例がこれと別異の規制をしているからといって、市条例の合憲性の判断に何らの消長をもたらすものではない。

その他原判決は、本件はり紙が市条例の規制する広告物に該当しない理由を説示するが、いずれも左袒しがたく、また弁護人のじ余の所論も以上の結論を左右するに足らない。

してみると、被告人の本件行為が、市条例一六条一号、四条三項、二条一項に該当することが明らかであり、これを否定した原判決は右各規定ならびに屋外広告物法二条および憲法二一条の解釈適用を誤ったものというべく、右の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れない。検察官の論旨は理由がある。

よって刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従って、さらに次のとおり自判する。

(罪となるべき事実)

被告人は佐藤哲男と共謀のうえ、法定の除外事由がないのに、大阪市長の許可を受けないで、昭和四〇年六月二二日午後一〇時過ころ、大阪市条例により、はり紙の表示を禁止された、大阪市東淀川区淡路本町二丁目一六七番地付近の電柱五本に「成田書記長来る、二七日後七時、三国小学校」と印刷した縦約三六センチメートル、横約一〇センチメートルのビラ合計五枚を糊で貼付し、もって広告物であるはり紙を表示したものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示所為は昭和四九年大阪市条例第三二号による改正前の大阪市屋外広告物条例一六条一号、四条三項、二条一項、昭和四七年法律六一号による改正前の罰金等臨時措置法二条、刑法六〇条、右条例第三二号附則五項に該当するので所定罰金額の範囲内で被告人を罰金二〇〇〇円に処し、右罰金を完納することができないときの労役場留置につき刑法一八条、刑の執行猶予の点について同法二五条一項、原審および当審訴訟費用を負担させない点について刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して、主文二乃至四項のとおり判決する。

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